ごあんない
この旅行記は、ロシアが、まだ旧ソ連の時代で、ゴルバチョフが書記長になってまもなくの1985年3月、大学の卒業式にも出ずに14日間の旅へ。と旅立ちました。
ツアーへの申し込み者が少なく、結局申し込んでいたもう一人・Hサカ氏を含めた友人2人と4人組での個人旅行となりました。
当時ソ連はペレストロイカ政策に移行する前、秘密のベールで包まれて情報がほとんどない、何か危なっかしく怪しげな国へ当時人気を博していた椎名誠の旅行記のようなドタドタ旅行でした。
現在のロシアとは違う社会主義末期の危うさと素朴さが同居した旅の話をイラスト,写真とともにお楽しみください。
ソ連旅行記
ハバロフスク空港での出来事
春の気配が近づく東京。
上野、大宮間、開業後数日の上越新幹線に乗って、日本からのソ連への出発の地、新潟へ向かいました。
ぶ厚いコートはそろそろいらなくなりそうな東京でしたが、ソ連の寒さはどの程度かわからずコートの中に革ジャンを着ており着膨れでたいへんでした。
新潟空港よりアエロフロート機に乗り、ハバロフスク空港に着きました。
まだ旅行が始まってまもないここですでに事件?!はおきてしまいました。
当時、飲み放題・食い放題には何でも目がなかった私、ハタボノフは、機内でワインをぐびぐび飲んでしまっていて、まだ見ぬ怪しげな国への旅への期待もあり、ほろ酔い気分で入国審査を受けました。
そして次は税関を通るので財布を出して…と思ったら財布がない…?
「うそだろ!これから旅行が始まるというのに…。あれ、なんでだろう…」
「そうだ機内で計算し申告書類を書き込んだ時に財布を出した。」
「じゃあ機内に落としたか忘れたかしたのだ。」
「もう入国審査は終わって機内には戻れないのにああ~どうしよう」
とおろおろパニクっていた私をオーリャが見かねて一緒に飛行機に乗ってきたツアーの添乗員の方に話してくれ、その人がロシア語で近くにいた空港の係員に掛け合ってくれました。
「そうかしょうがねえなこっちへ来い」という感じに柵を開けて中に招き入れられました。前後2人ずつ兵士に囲まれて、まるで連行されて行くかのように飛行機まで連れて行かれました。
飛行機のタラップからはスチュワーデスや乗員が「もう掃除も整備も終わったぞ、どうだこのやろう!」と言う感じで降りてくるところでした。
そして怖そうな顔でこっちを見ながら
「なんだなんだこいつは」
「何があったんだ、財布!そんなもんなかったぞ」
「でもこのバカな日本人がねえってんだから」
「しょうがねえな、昇って勝手に見て来いよ」
などと言っていたんでしょう、たぶん。
それで機内に入って自分の座っていた場所へ行ってみたけれど奇麗に片づいていて何もなく
も〜冷や汗をだらだら流しつつ必死に探し、それでもなんとか、幸運にも、やっとの思いで見つけました。
どこにあったかというと、なんと椅子の下の脚との間に挟まっていました。うーん、何てラッキーなんだと言う感じで周りのロシア人に「ありがとう」と言おうと思ったのだけれど、その時はロシア語で「ありがとう」も「こんにちわ」すらも知らない自分に気が付きました。
何ともはじめからアクシデントというかドジな私、ハタボノフでした。
さあこれからどうなるのやら。
ハバロフスクの市内を散策の時に
一夜明け、朝食後、雪がわずかに舞うような寒さのソ連二日め。
ハバロフスクの町を歩いてみた。
静かな佇まい。頑固そうなおばあちゃん。
フムフムと歩いていたら、向こうから3・4人の若い男が現れた。
どう見ても柄の悪そうな”愚連隊”と言う感じの奴等だ。
明らかに警戒するハヤサカ氏。身構える我々。
「チンチン・カムカム」なんのこっちゃ!!
オオリャの解釈ではchainge.chainge.come.comeということらしい。
どういうことなのかと話を聞いてみると、近くにある外貨ショップである「ベリョースカ」に行ってフィリップモリスとかマルボロとかの海外たばこを買ってきてくれと。それと彼らが持ってるキャビアの瓶詰めを交換してくれということらしい。
なんか怪しげな話だし、チェンジ自体もやってはいけないことなのだが…。止めようとするオーリャとヤマチャノフスキー。一歩引いて関わりがないようなふりをするハヤサカ氏。
ハタボノフは悪いことでだまされてるような気がしたが、「面白そうだから、まいっか。」とその話に乗ったのであった。
交換したキャビアの瓶詰めはひとつ。煙草ワンカートンとの値段の差はどうなのかわからないし、キャビアの瓶詰めがちゃんと食べれるものなのか、あるいは賞味期限がどうなのかは全然わからない。ちょっとしたスリルと冒険をしたような気になった。
結局そのキャビアの瓶詰めは後日、食べるのも恐いので、川に捨てたのでした。
あ〜もったいない、もったいない ^_^
「チイェトリ・チイェトリ」とくせーミルク
外はマイナス何十度かという極寒の地シベリアにあって、シベリア鉄道、ロシア号の中はストーブが焚かれ、窓は二重窓であり、初夏のようにTシャツ一枚でも充分な暖かさであった。
過去にもオリエント急行に乗っていたり、鉄道マニアのHサカ氏は嬉しくてしようがない様子で満面の笑みという感じ。一枚一枚、何を撮ったのか記録を取りつつ写したり、他の車両を探索に行ったりといきいきとしている。
昼飯は車内販売のおじさんがロシア式弁当をアルマイトの入れ物にいれ、ロシア風岡持にいれ列車内を売って歩いていた。ボルシチにパンがついてちょうど1ルーブルだった。今の貨幣価値と比べてどうなのだろうか?
とにかく腹ぺこ四人組はそれを「チイェトリ・チイェトリ」と4人分買って食べました。なかなか美味しく,今でも忘れられない味でした。
シベリア鉄道は全線続けて乗っていると8日間かかりますがそれはたいへんだからと、途中イルクーツクで降り一泊しまた乗り直したのですが、後半に乗ったロシア号では車内販売のおじさんはいなかったような気がする。いや、いたのかもしれませんが、この時のおじさんほどのインパクトがなかったのかもしれません。
ロシア号にはビュッフェもありました。後半の時は4人で食べに行きましたが、前半は車内販売のおじさんの持ってくるものばかり食べてましたので、ビュッフェに行くのは主に飲み物を買うときでした。「くろすぐり」や「こけもものジュース」が最高に美味しかったです。
この時からおよそ一年後にチェルノブイリ原発が事故を起こしています。「くろすぐり」などがソ連のどこでとれたのかわかりません。こういう天然のもののジュースはその後飲めなくなったのかもと思われますがどうだったのでしょうか。
他にも「ケフィール」という牛乳のように見える白い飲み物がありました。飲むヨーグルトのような、あるいはチーズのような感じのもので、あまりおいしいとは思いませんでした。特にその匂いから「クセーミルク(臭いミルク)」と皆で呼んでました。これは最近日本でも「ケフィア」という名で売られているものと同じでしょうか?テレビのコマーシャルで見るとそんな感じですが、「ケフィア」を飲んだことがないのでわかりません。
また、後にモンゴル旅行をした時に「馬乳酒」を飲んだのですが、これともちょっと違った感じでした。